第100回  夜空の猪木

台北から帰国した翌日の4月16日。
六本木ヒルズの日本料理店で武藤敬司ご夫妻と新日本プロレス新社長の棚橋選手と食事をしました。以前からの約束です。武藤さんは引退後も毎日ジムに行っているとの事で、現役とは変わらない感じでした。棚橋選手は台湾遠征を終えた直後の忙しい中での参加です。
2日前に「台湾大会」が終わったので、その話題になりました。棚橋選手が当日に挨拶ができなかった事についてお詫びの言葉がありましたが、それは棚橋選手のせいではなく、私自身の対応が悪かったと伝えました。次回、台湾に行く機会があれば、必ず紹介すると約束しました。台湾大企業のトップとはもちろん台湾総統の顧問的な立場の人とはそうそう面談することはないので、「社長としてのネットワーク」には必要だと伝えました。
武藤さん曰く、「おれは台湾では有名なんだ」と全日本プロレス時代にはかなり台湾で試合をした話などに花が咲きました。全日本プロレス時代の武藤社長としての「社長業」の話題から、棚橋選手兼社長としての話に盛り上がりました。2人の話の内容はここでは控えさせてもらいますが、なかなかの内容です。
私が「ここにスポーツ記者がいると、めちゃめちゃおもしろい話やね」と言うと、彼らは「記者がいるとこんな話はしません」となり「もっともだ!」と更に盛り上がりました。最後に、猪木がやろうとしていた「中国でプロレスを広める」事を棚橋社長に託しました。
あわせて、最近ネットニュースでプロレス業界団体「日本プロレスリング連盟(UJPW)」が設立された事を知り、単に合同大会開催だけでなく連盟として、猪木の国民栄誉賞受賞の運動を広めてほしい事も棚橋社長に依頼しました。

「闘魂」「台湾」「社長業」「中国」の話には必ず「猪木」が後に付いています。
この日の食事会で、改めて「猪木は色々な人材を残しているなぁ」と再認識しました。

食事会が終わり料理店からそれぞれ別れました。
私は、六本木から三田に向かって夜の街を歩きました。もし、猪木が生きていたなら今日の食事会でどのような話の展開になったのかな、と1人で思い描いていました。

私は猪木が亡くなってから、夜空を見る事が多くなりました。
子供の頃に亡くなったら星になる、と教わった事をこの歳で理解するようになりました。

夜空を見ながらワインが効いてきたのか、急に何故か目頭が熱くなりました。
ふと気がつくと麻布十番あたりでした。
数年前に猪木が力のない手で私の手を握り、かぼそい声で「おれをここから出してくれ」と言ったあのアパート辺りに差し掛かりました。その辺りを横目に見ながら、いろいろあったな、と思いました。
この目頭が熱くなるのは何故だ。猪木が何か言いたいのか。いくらでも聞いてあげるぞ。
聞いてあげるから出て来てほしい。何だったら、もう一度このアパートに迎えに行ってもいい。猪木がいるなら、猪木に会えるなら、あのアパートに行きたい衝動にかられました。

麻布十番の交差点の信号機が青になった事も気が付かず、もう一度夜空を見上げました。
もう、猪木はこの世にいません。地の果てを探してもいません。

猪木は夜空の中の人になってしまったのです。

なんか知らないが、ただただ猪木に会いたくなりました。

次回、5月1日に掲載予定です。
(「天国の猪木へ」は不定期掲載です)

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