1月8日。
台湾進出におけるメディア発表会がありました。台湾市場では「食パン専門店」ブームが既に落ち着いているため、「何故台湾進出なのか」という質問が多くありました。分からない事ではありません。日本での「食パン専門店」ブームが終息し、レッドオーシャン化している中、仮の話ですがアメリカの「食パン専門店」が、日本に進出してきたようなものです。
いわゆる「銀座仁志川」の存在意義(パーパス)が、台湾市場進出の理由になります。ここでは詳しくは説明しませんが、私は3つの事を発表しました。
①「新食パン生活」の浸透
②「ギフト市場」への参入と定着化
上記2点は、社外秘でもありますので詳しく説明はしません。
そして3番目の理由が、メディアの方々に納得してもらえた内容でした。
それは、2011年3月の東日本大震災の際、台湾から220億の義援金が送られてきたという話をしました。そして2年後の2013年、第3回WBCで日本代表と台湾代表が4時間37分にわたる戦いを繰り広げ、日本代表が勝ちました。その試合後、東京ドームの観客は日本代表が勝った事への拍手を送ると同時に、台湾代表に対して「台湾謝謝」の大合唱がありました。それは義援金への感謝のお礼です。台湾代表はマウンドに並び、観客に向かって感謝の意を表しました。
私はその光景をテレビで見て、涙が出てきました。台湾の方々に対する感謝と東京ドームのほとんどの観客が「台湾謝謝」と言っているシーンに感動したわけです。同時に、「日本もいい国だな」と誇りも感じました。
2024年4月には台湾・花蓮で大きな地震があり、私はテレビでそれを知りました。日本では3か月前、元旦に能登地震がありました。「銀座に志かわ・金沢店」も閉店しました。閉店日最後の食パンを能登の避難所に届けました。本来なら花蓮の避難所にも食パンを届けたい。しかし、それはできません。これからは「銀座に志かわ」の食パンを届ける事ができます。当然、誰も災害を望んでいません。しかし、台湾に進出したことで、そうした事も可能になります。こんな旨の話をしました。
実は私は、東京ドームでの「台湾謝謝」のくだりを話す時、いつも涙声になります。この日の夕方の「関係者試食会」でもこの話をし、100人近い参加者の方々も一緒に涙を流しました。メディアの方々も同様でした。今、こうして文章を作成していても感動が蘇ります。
この3番目の理由も含めて、「食パン専門店」ブームが落ち着いたにも関わらず、台湾に進出を決めた背景を説明しました。
1月10日。この日が「銀座に志かわ・敦南店」のオープンの日です。
私は、台北から今年初の役員会にZoomで参加しました。
この時、「人間はしっかりとした志があれば、『会いたい人』には会えないが、『会うべき人』には必ず会える」「安易な『順調』は、神様からの落とし穴。問題があってこそ、真の『順調』になる可能性がある」と決算前に役員に向けて話をしました。その前後の話については控えさせていただきます。
9時40分、雨の中でオープンセレモニーを行い、10時オープンを待ちました。その時には雨は止んでいましたが、お客様は3名ほどでした。少し不安を感じながら、日本でのオープン時と同じようにゲン担ぎのために近くのスターバックスへ行きました。10時に店へ戻ると、長蛇の列が出来ていてホッとしました。日本ではこの時期はお正月ですが、台湾では年末にあたります。忘年会での社員さんのお土産として、大量の注文も入りました。私はそれらを見届け、13日に帰国しました。
帰国翌日の14日夕方に問題が発生しました。台湾の責任者からLINE電話が入り、「台湾のテレビ局から取材が入り、敦南店が保健所の許可なしに販売しているという視聴者からの問い合わせがあった」との事です。私は最初、何を言っているのか要領を得ませんでした。台湾の責任者も流暢な日本語は使えません。結論から言えば、保健所の許可を受け取らないままオープンしたという事です。私は驚きました。責任者の話によると、保健所には届けていたが、保健所からの話では「10日前には許可が出せる」と言われていたものの年末の繁忙期で処理が遅れ、許可が届いていないとの事でした。いずれにせよ、「届いていない」ままオープンしてしまったという事です。簡単に言えば、基本的な手抜かりがあったという事です。
私は責任者に「全て台湾当局の指示に従うように」と伝え、「オープンしてはいけないと言われたら、それに従うように」と指示しました。責任者とのLINE電話が終わった後、すぐにOSG財務責任者に連絡し、事情を説明した上で「最悪1年間オープンできないとして、家賃・人件費等の総額を把握するように」と指示しました。
夜には台湾のテレビ局でそのニュースが流れたとの事です。「台湾銀座仁志川」の株主の1人から「台湾ではこうした事は珍しくないので心配しないように」と連絡が入りました。テレビのニュースで取り上げられているのは「銀座仁志川が有名だから」と慰めにもならない話もありました。また、保健所から「営業停止」の指示はないとの事です。しかし、私としてはたとえ保健所の事情があって許可が遅れたとしても、それはいけない事だと伝え、ニュース番組で「台湾銀座仁志川無許可営業」的に報道された事が台湾全土にマイナスイメージを与えると思い、私自身が台湾に行き謝罪会見をする準備を進めるよう台湾の責任者に伝えました。
1月14日は私の77歳最後の日であり、翌日の15日が78歳のスタートの日です。翌日のオープンにてその後の「銀座に志かわ・敦南店」の方向が決まります。
14日の私の日記には、「私らしい1日だ」と締めくくっています。
1月15日。私の78歳の誕生日です。敦南店のオープン時間10時(日本時間11時)の様子の連絡を、早朝より待っていました。
「どんな感じですか」
「会長、店の前には20人ほどのお客様が並んでいます」にホッとしました。中には「ニュースを見て、銀座仁志川が台湾に進出したんだ」と言って並んでいるお客様もいます、との事です。私は自分のスマホに向かって、深く頭を下げました。
この日の日記に、「昨日は激震にて77歳が終わり、78歳を迎えました。こう来たか。
この日の教訓は忘れてはいけない」と締めくくりました。
2025年8月29日から2か月が過ぎました。
「余命10年宣言」78歳から88歳まで。こんな1日のスタートから始まりました。
次回、11月29日に掲載します。
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