代表取締役 湯川 剛

1984年の7月、私はリズムタッチ3台を鞄に積め、ロスに飛びました。
目指す「業界日本一」実現を翌年(1985年)に控えていた事もあり、あらゆる所に販路を求めようと、海外進出にも目を向けました。
現在、弊社は中国に現地会社を設立しグローバル化を目指していますが、その原点はこの年の私の単身渡米にあったかもしれません。ハワイに行った事はこれ以前にもありましたが、アメリカ本土は初めての経験でした。ツアーのグループには入れて貰いましたが、行動は全て単独行動。到着後、英語の出来ない私は、現地のガイドに日本街までの案内を頼みました。
そこからは自力での販路開拓です。まずは日本料理店を探し、飛び込み営業に挑みました。
今から考えれば滅茶苦茶な行動ですが、この時はまさに決死の覚悟、真剣そのものでした。
私の目的は、1台のリズムタッチを売る事ではなく、販売ルートを探す事こそが目的だったのですが、いつの間にか「飛び込みセールスでリズムタッチを売って武勇伝を作ってやろう」という思いに変わっていました。
1軒目として選んだ店は寿司屋でした。寿司屋の店主は始め、私の事を当然「寿司を食べに来たお客」だと思ったようですが、何かを売り込みに来たセールスマンだと分かると、けんもほろろの対応でした。まさに「秒殺の一撃」を喰らったような具合です。

こんな事でめげていては武勇伝など出来る筈もありません。2軒目の日本料理店を探しました。何せ、日本語しか知らないので、日頃語っている「市場無限」という状況には程遠くて、これは「市場有限」の感じでした。
次は蕎麦屋でした。扉を開けると元気のいい「いらっしゃい!」の声が、私を迎えました。
無意識にその声に反応してしまったのでしょうか。気付くと私は普通に「客」として、蕎麦を食べていたのです。日本人の店員さんに「こういうものを売る会社を知りませんか」と聞くと「知らない」との事。「お客さん、オリンピックを見に来たんじゃないの?」という話になって、初めてロスでオリンピックが開催されている事を知りました。それ程、仕事以外の事に無関心だったのです。
店を出て次に挑む3軒目の店を探しました。1軒目の寿司屋の対応に多少むしゃくしゃしていたので、もう一度、寿司屋に挑戦しようと思いました。意気込んで入った3軒目の寿司屋でしたが、またも私は「お客」になっていました。たった3軒目で心が折れたのか、全く営業の話などせずに終始オリンピックの話をし、すっかり「アメリカで武勇伝を作る」という気持ちも消えていました。帰り際に寿司屋の親父にリズムタッチを1台プレゼントし、「自分は何の為にアメリカへ来たのだろう」と思った程です。

宿泊先のハイアットホテルで、あの「ミスター巨人」の長嶋氏と遭遇。エレベーターで2人きりです。「オリンピックを見に来たのか」と尋ねられたので、私は少し格好をつけて「いいえ、ビジネスです」と答えました。「じゃ、ニューヨークにも行くの?」の問いに、思わず「はい、行きます」と答えてしまいました。「ニューヨークはとても良い街だ。じゃ!」と言って、長嶋氏はエレベーターを下りたので、私も一緒に下りて記念写真を撮って貰いました。
「じゃ、ニューヨークでのビジネスの成功を!」と握手を交わした後、私は部屋には戻らず、その足でツアーカウンターに直行。

「このツアーで急遽、ニューヨークに行けますか」そう、尋ねていました。

(次回に続く)

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