代表取締役 湯川 剛

「私共はこのようなおもちゃのような製品は作りません」の状況が一転しました。
聞くと、「今後はこのようなタイプの低周波治療器が増えるのではないでしょうか」という声が日本理工の若い社員さん達から上がったらしく、それによって阿比留社長は私を呼び戻されたのです。
私は翌日、飛んでいきました。
「作りましょう。」
「作らせて貰います。業界全体が沈滞している時に、湯川さんのような外部の方が刺激を与えてくれる事は業界にとっていいチャンスかもしれません。」
私はただひたすら
「業界日本一になりますから」
「3万台とは言いません。今は出来ませんが、必ず1985年には10万台をやって見せます」と大見得を切りました。
医療認可を取る為に6ヶ月以上掛かるが年内には出来るでしょうとの事でした。
私は「1月15日が私の誕生日ですので、来年の36歳に製品も誕生出来ますか」に急げば出来るとの事でした。

私は早速、西山社長に伝えました。西山社長にも是非とも佐世保に行って頂けるよう、依頼しました。西山社長は相変わらずニコニコしながら「エラい遠いところまで行ったんやなぁ」と言って年内は従来のところで生産委託しながら、次の事は改めて考えましょうとの事でした。
この西山社長が12月5日に52歳の若さで急死をしたのです。
奥様の話によれば、その日の朝にゴルフの打ちっぱなしに行って帰宅された後、トイレで倒れられたとの事でした。
K産業は大混乱でした。生産委託先も含めて、全てが西山社長に委ねていた事での突然の死は、全ての業務が停止してしまう程でした。西山社長との出会いから4年。16歳年下の私を温かく見守ってお付き合いして頂いた西山社長でしたが、この突然の死は私にとって青天の霹靂であり、苦境に立たされました。
同時に、もし私が7ヶ月前に日本理工を訪ねていかなければ、西山社長が窓口になっている生産委託先のやりとりも分からず、それを考えればゾッとしました。誰が1年後の人の死を想像出来るでしょうか。人生や歴史に「もし、あの時に」で、状況が一変することがありますが、それにしてもこの出来事は私に何をメッセージしているのかと考えました。
ちなみにK産業はその後、他社に売却されたと聞きました。
いずれにしろ、新製品リズムタッチ(DX)の新発売を1ヵ月後に控えての出来事でしたが、発売日をずらし49日を過ぎて発表する事になりました。

この件に関わらず、37年の経営の中で、私自身がどうする事も出来ない不思議な出来事や厳しい状況に直面する事など数多く体験しました。それらは全て「偶然的な出来事」として捉えるのではなく、自分自身にとって「必然的な出来事」であり、何らかのメッセージを私に与えているのだと前向きな気持ちで受け入れてきました。今回の「パートナーの突然の死と1年前からの準備」は、否が応にも「業界日本一」を実現せねばならないと強く決意しました。

(次回に続く)

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