代表取締役 湯川 剛

34歳の誕生日を迎えた1月15日に創立10周年記念と本社ビルの竣工を兼ねたパーティーを行ないましたが、「自社ビルを建てた会社は要注意。3年後には倒産する」というジンクスを聞かされていましたので、毎日を必死に過ごしていました。

この年(1981年)もGAT訓練による販売促進企画は快進撃を続け、全国的に広がっていきました。浄水器の販売はメンテナンスを中心に地道に活動していましたが、売上の大部分は低周波治療器リズムタッチの方にシフトされ「業界日本一」を合言葉に、売上も加速的に伸びました。いつかは浄水器にスポットが当たると信じていましたが、当時はまだまだ「水にお金をかける」という生活文化が一般的には定着していませんでした。会社は何としてでも存続しなければならず、そういう意味においてこのリズムタッチとの出会いは、私にとっては忘れられない製品の一つです。更にこの製品の誕生に生涯忘れられない出来事がありました。

この年の11月にリズムタッチの製造元であるK産業の西山社長に製造委託先の生産設備の充実や更なる技術の要請を行ないました。その理由はただ一つ、「西山社長、私は必ずこのリズムタッチを業界日本一にしますので、それに相応しい製造設備や技術の革新をお願いしたい。」という思いからでした。というのは、西山社長は町工場のようなところで製造委託をお願いしていたのです。私としてはそこが何となく気に入らなかったのです。西山社長は「分かっているが今の生産量であれば必要以上の設備投資を相手先に言えない。」との返答でした。今の私なら西山社長と同様に実績を上げてから、それに伴って設備を充実させていく考え方になっていたかも知れません。

しかし34歳の私は「日本一になるのだから日本一に相応しい設備で作らなくてはダメだ。」との思いが強かったのでしょう。そこで私は西山社長の代わりにメーカーを探すことにしました。もし良いメーカーがあれば、西山社長と一緒にそこに生産委託をお願いしようと思っていました。

翌年の3月に長崎に日本理工医学研究所(日本理工)という医療向け治療器等を製造している会社がある事をある人から聞き、飛び込みで訪ねて行きました。現在製造委託している会社とは比べようもない程の立派な設備もあり、創業は昭和32年の実績と医療向け以外に家庭用治療器の実績もある事を知り、何としてもここで生産して貰おうと思いました。ここなら日本一に相応しい製造元になるし、ここなら西山社長も納得して貰えると思いました。いきなりの訪問でしたが「社長が会います。」という事で応接室へ通されました。そこに将来、低周波治療器のベストパートナーとなる阿比留忠徳社長との出会いがありました。

しかし最初の対応は素っ気無いものでした。まず現在売っている製品を見せて「このような製品を生産して欲しい」というと、「私共はこのようなおもちゃのような製品は作りません」というキツい言葉でした。「おもちゃ?」私の顔色は変わりました。何がおもちゃなのかと食って掛かりました。

(次回に続く)

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