代表取締役 湯川 剛

私にとって白金台のマンションにて「猪木に生きるチカラ」を与えるとは「詩集出版」と「映画制作」と今回にお話しする「新日本プロレス復帰」に注いでいました。

2021年11月26日の昼過ぎ、プロレス団体ノアの武田取締役から電話がありました。
内容は新日本プロレスの菅林会長が私に会いたいとの事でした。
武田取締役は「たぶん新日本プロレスが猪木さんを迎えたいのではないか」の話でした。
私自身その電話の内容に驚きました。
実は例の猪木との「3つの依頼(メッセージ)」を聞いた時から私の心の中に決めていたものがありました。それが「新日本プロレスへの復帰」を考えていたからです。この事は相手があることでもあり、OSGの一部の幹部のみに伝えていました。それだけに武田取締役からの電話にはひっくり返る程驚きました。
私はよくOSG社内にても「強い念(おも)いは実現する」「強い念いは状況を引き寄せる」と事ある毎に伝え、過去にもそのような経験は幾らでもありました。
とはいえ、やはりリアルな話には年齢を重ねても感動します。しかも猪木からの3つのメッセージを聴いてから僅か1か月の出来事です。

実は「新日本プロレス(略、新日本)への復帰」には僅かな望みを持っていました。
その1つに新日本のオーナーである木谷社長がある雑誌に「創業者は大事にしなくてはいけない」というコメントを知っていたからです。
この事で以前に木谷社長と面談した事があります。10年前の猪木が古希のパーティの後、2013年の参議院議員選挙に立候補しました。政界進出を決めた時に応援の依頼に木谷社長と面談をした際「もし猪木が亡くなった時に新日本のライオンマークの旗を借りたい」とお願いした事があります。それは当時から猪木と新日本との関係を繋げておきたい気持ちがありました。猪木が創業した新日本プロレスは2022年に創立50周年を迎えます。
この機会に何とか猪木との関係を生かせないかと心のどこかで思っていました。数年前には新日本のトップスター選手であるオカダ・カズチカ選手がリング上で「猪木」の名前を呼んだ事も妙に覚えていました。そういう背景が私の中で「新日本プロレスへの復帰」があったのでしょう。

しかし猪木は自ら創業した新日本の株を売却して自らの判断で新日本を出て行った訳です。
猪木らしいと言えば猪木らしいです。その新日本に今更帰る事は出来ません。
その新日本に復帰させるのが私の願いでしたが、そこには大きな壁が2つありました。
1つは新日本側です。もう1つは猪木本人です。もしかすれば私の考えは「小さな親切、大きなお世話」になる事になります。それでも私は猪木を新日本に帰らせたかった訳です。
その1つの大きな壁である新日本からのメッセージです。

年が明けて2022年1月13日18時30分、菅林会長が来社してくれました。
旧知の間柄ですが、10年以上は会っていません。私は菅林会長が営業時代から知っていました。菅林会長は「河原さんが亡くなったのですね」と思いがけないOSGの創業メンバーの話から入りました。そして部屋に祀ってある信貴山の神棚に手を合わせてくれました。北海道出身の菅林会長が何故、信貴山を知っているのか、正直私は驚きました。話によると新日本がどん底な時代に信貴山に車の安全運転のご祈祷をすると言って選手全員を連れて行った経緯を聞きました。その後、新日本は回復の兆しが見えたとの事で、信貴山には縁があるとの事でした。そんな旧交を温めるような話から2人の面談が始まりました。最初は例の週刊誌に書かれている金額であれば新日本が肩代わりしてもいいとの事でしたが、猪木との訴訟関係など当時の経緯を詳しく菅林会長に説明しました。
それなら次の提案として「新日本の復帰」についての話になりました。
私としてはその話には「何とか実現したい」という気持ちがありました。その時、新日本側から「条件がある」となり、私が猪木を一括に管理する事でした。当時、猪木には別のマネジメント会社があり、それでは「新日本復帰は難しい」との事でした。
新日本側にとってもこの時は決して役員全員一致の考えではなく、「復帰もあり得る」という事でこの日の会話は終わりました。しかし私からすればこの日の話は何としても実現させたい思いでした。この日の面談は私にとって大きな壁の1つが崩れるきっかけになりました。

そんな私と菅林会長とが水面下で面談を何度か重ねる中である出来事がありました。
2022年4月7日。私はプロレスラー武藤敬司選手と藤田和之選手とノア武田取締役と4人で食事をする機会がありました。テーブルではなくカウンターに座っての食事です。
その時、私の横に座っていた武藤選手と猪木の処遇についての話になりました。武藤選手にはその時、私と猪木や新日本プロレスと連絡を取り合っている話は一切伝えていません。
武藤選手は「今の猪木さんの面倒を見るのは湯川会長以外いません。もし猪木さんが悲惨な生活で人生を終わるならば、それは猪木さんのためだけでなく日本の全レスラーにとっても夢のない話にもなります。何とか湯川会長には頑張って下さい」のような話になりました。
そうか、猪木の最期の姿によっては多くのプロレスラーにとっても大きな影響を与えるのかと思いました。今回の役割が本人だけでなく多方面にも影響するのかと改めて確認しました。
武藤選手の話は続きます。「猪木さんが最後に収まるのは新日本プロレスしかありません」との話に私は驚きました。第三者は意外とそのようなイメージがあるのだと思いました。
私は喉元まで「今、菅林会長とその事で話し合っている」と言いたいところをグッと飲み込みました。武藤選手の話に「それは分かってる」としか言えませんでしたが、この時の武藤選手の言葉が私を更に勇気づけてくれました。

菅林会長との話に戻します。
猪木の復帰には一部の役員と選手会長のみしか知らされていないとの事でした。ここから役員全員の「承認」が必要なのは当然です。菅林会長の話の通りアンチ猪木派もあるでしょう。当時の新日本は猪木の金銭問題を含めていろいろな負債を背負いながら頑張っていました。
だから簡単に「猪木復帰」にはいろいろな難題が社内にある事も想像出来ます。それだけに私自身が「猪木復帰」に対しての熱意を新日本に伝えなければなりません。そうしなければ大きな壁は崩れません。「猪木の復帰はどちらでもいい」とこちらが思えば新日本側にもその意欲はなかったと思います。

また菅林会長との何度かの話で「猪木復帰」した場合の猪木の身分について話が出ました。
新日本側からは「スーパーアドバイザー」の提案がありましたが私は少し違和感を感じ、「顧問」や「相談役」を私から提示し、その日は菅林会長は持ち帰る事になりました。
次の面談での回答は「顧問」や「相談役」では役員会の何か問題があるとの事でこの肩書もうまく進みませんでした。そこで私が「終身名誉会長ではどうですか」に対し、再度持ち帰るとの事でした。その結果、その身分を受け入れて貰い正式には9月1日付「終身名誉会長」就任が決定されました。菅林会長には本当にご苦労かけました。
この菅林会長とのやり取りの期間中に猪木は前住居から白金台に引っ越ししました。

前回にお蕎麦を食べたのはランチと言っていましたが、8月22日は夕食の間違いです。
お蕎麦を食べた後、私は猪木に呼ばれて寝室に行きました。詩集について少し話をした後、ベッドに横たわっている猪木に私は彼の手を握り「新日本の終身名誉会長に復帰してほしい」と伝えました。猪木にとって突然の話です。青天の霹靂でしょう。「新日本プロレス復帰」に関しての話は猪木には一切していませんでした。もしそのような話があるとして結果的にダメなシナリオもある訳です。だから私自身も周辺には誰一人この話はしませんでした。
結果が明確になってから話す事にしました。しかしもしかすれば猪木から余計な事と叱られるかもしれません。もう1つの壁です。

「猪木会長。新日本プロレスから復帰の話があります。受けましょう。50年です」に猪木は私の目をじっと見ていました。最初は「何を言っているのだ」という目でしたが、否定的な目ではありませんでした。その内、猪木の目に光るものがありました。私もそれを見て目頭が熱くなり泣きそうになりました。
私は猪木の手を少しチカラを入れて握ると猪木もそれに応えるようにチカラを入れました。
「猪木さん、新日本に帰りましょう」と言いました。
私は猪木の光る目と弱弱しいがその中でもチカラを入れた握手にたまらなく胸がジンとなり、私は両手で猪木の手を握りました。猪木が最後に帰るべき居場所です。
創立50周年を迎えるこの年に「終身名誉会長」として戻る事が決まった瞬間です。

先ほども言いましたように猪木は自ら新日本を創立し自ら離脱しました。その時に何があったのか、私には分かりません。たぶん猪木の身勝手な行動だったかもしれません。
離脱以降の猪木は何かにつけて、新日本を非難していました。その事は私も知っています。
私は会社を経営して50年以上経ちます。経営では「人間」について多くを学びました。
人間にとって「愛情」の対極にあるのは「憎悪」ではありません。「憎悪」はまだ相手に関心がある事も知っています。実は「愛情」の対極は「無関心」なのです。
猪木が新日本に向かっていろいろ非難しますが、それはまだ愛着があるからです。無関心でいられないから非難をするのです。猪木の心の中には「新日本プロレス」の7文字はいっぱいにあったと思います。
誰が何を言おうとも新日本を創ったのは猪木であり、創業時の書籍を読むと奥様の倍賞美津子と共に「無」から創ったそうです。新日本が創立50周年を迎えるこの機に猪木が復帰する事の最大のチャンスです。今回、新日本から投げられたボールは私から新日本に投げたかったボールです。新日本プロレスのオーナーおよび幹部の皆様には心から感謝しています。この9か月間の間、菅林会長には社内の統一に汗を流してくれた事に心から感謝します。

私が猪木に伝えた日からちょうど1か月後の9月22日夜、私は新日本プロレスの本社にいました。木谷ブシロード社長との面談です。というよりはお礼のご挨拶でした。
新日本のオーナーである木谷社長と菅林会長と大張新日本プロレス社長らとの話では来年1月4日の東京ドーム大会「イッテンヨン」の大会で「終身名誉会長就任」をファンの前で発表する事になっていました。話題は「イッテンヨン」になりました。当然の事ながら猪木の登場です。「来年1月4日に猪木会長が東京ドームに登場すれば凄い事になる」との話からそれまで猪木が足腰を強くするモチベーションにもなる事も話しました。猪木が登場する場合はどうすればいいのかという話に移りました。「車いすの登場よりお神輿で猪木会長に登場して貰った方がいい」などのアイディアも出ました。
猪木にとって最高の「生きる希望」のステージです。「猪木を新日本に復帰させたい」というイメージがまさに目の前の会議での「実現」のシーンです。
私がよくOSG幹部にいう「求める状況を現実に獲得する前に、まずはイメージだけでも獲得せよ」のその場面です。言い方を変えれば「物質的に獲得する前に精神的に獲得せよ」。

翌9月23日18時に白金台に行きました。猪木は車いすでテーブルに座っていました。
弟の啓介さんと介護の宮戸さんのご主人の宮戸さんもいました。この日は昨日の木谷社長との面談の結果を猪木に報告するために来ました。東京ドーム「イッテンヨン」の話やお神輿の話が出ました。そこに昨日も新日本の面談に同席したアシストの青木社長がやって来ました。猪木が頼んだという焼き鳥を持って来てくれました。
以前も言いましたが、猪木の部屋には全国各地から名産物や銘酒が届いています。私は日本酒はあまり飲まないのですが、この日は少しいい気分になっていました。宮戸さんと目を合わして「日本酒でも飲みますか」「飲みましょう」となり猪木に確認をしたところ小さな声で「いいよ」との事です。「東京ドームに猪木がお神輿に担がれて登場する」イメージだけで私は一人ご機嫌でした。どこの銘酒か分かりませんが、日本酒がとても美味しかったです。

5日後の9月28日に来ることを約束してこの日私は帰りました。

【追記】
前住居から白金台に移る時、従来の訪問介護チームや訪問診療の医療チームの引継ぎに加えて、私達が準備した介護チームで猪木の治療・介護を行なっていました。そのような状況の中で私自身、セカンドオピニオンとしての機会が必要でないかと思いました。医療チームのU先生には大変失礼な申し込みだったかもしれませんが、私の主治医も入って猪木の病状及び治療方法等についてミーティングしたい事を伝えました。U先生は快く受け入れてくれました。医療チームの先生は献身的に猪木の事を診て頂いています。原則的には毎週木曜日に来てくれました。しかしそこに何か漏れはないか、万全であるかを確認するためにも医療チームの先生には大変失礼なお願いだったと思いますが、快くご理解してくれました。
私は猪木に対し最善の上にも最善を尽くしたかった訳です。
9月14日11時に医療チームオンライン会議が開催されました。私の主治医の橋弥先生や髙橋社長や介護リーダーも参加。
まずはじめに医療チームのU先生から現在の状況が説明されました。私の方からは本当に在宅治療でいいのか、もしかすれば入院する必要はないのか等の質問でした。専門的な内容は私達も分かりませんので、橋弥先生からの質問もありました。入院をしてもこの部屋で治療しても殆ど変わらない事が専門家同士の話で分かりました。それならば気兼ねなく自分の部屋で治療する事が最良の方法である事を再確認しました。何よりも本人がそれを望んでいる事も大きな影響力になっています。
ここでU先生から「猪木さんは余り長くはない」との事でした。難病「全身性アミロイドーシス」の世界的なデータから見ても、たしか60%の確率で年内も持たないとの話です。
後日、橋弥先生から再度説明を受けました。U先生は信頼の出来る立派な医師であり、安心して任せておけばいいとの事でした。そして「40%に期待しましょう」と励ましの言葉を頂きました。

(次回に続く)

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