代表取締役 湯川 剛

今回掲載する内容は最初に「本業はしっかりやっています!」と社員さんやお取引先様、並びに株主様にお伝えした上で、OSGグループとは直接関係のない出来事ですが、興味深い話を11月度(3回)に掲載します。

14年当時の日記や手帳を見ると、アントニオ猪木氏と彼のスポンサーの事が書かれてありそれらは今も色あせることなくそれぞれの場面を鮮明に覚えています。

以前、13年夏に猪木氏が政界進出した際の話(第435回 6月10日掲載)を、掲載しました。
今回は猪木氏の会社(IGF社)の〝頼まれ監査役〟をしていた関係で、大手スポンサーとの交渉に駆り出された時の話です。
新日本プロレスから離れたアントニオ猪木氏に何とかプロレス業界に関わりを持って貰いたいと当時、アントニオ猪木氏を支持していた人達が集まって作られた会社がIGF社(イノキ・ゲノム・フェデレーション)です。
業務はアントニオ猪木氏の肖像権・商標の管理とイベント企画運営・テレビ出演や広告出演の受付窓口。そしてIGF社主催のプロレス興行を行なっていました。
当時のIGF社の株主は稀有なスーパースターに相応しく、テレビでおなじみの英語塾やレンタルビデオ・酒造メーカー・飲食関係等、有名企業や上場会社のオーナー達ばかりでした。私自身はIGF社創立当時、株主ではありません。
主たるスポンサーも東証一部の上場会社で「アントニオ猪木」の名に相応しい会社でありスポンサーでした。

当時の主たる大手スポンサーはA社とB社の2社でした。
IGF社はわずか10名足らずの会社です。交渉相手が東証一部企業ともなるとなかなか前に進まない事があります。代表取締役会長であってもアントニオ猪木氏ですので実務的な事は出来ず、政界進出をきっかけにIGF社の株主からの紹介でT氏がIGF社の社長に就任していました。

この当時、毎年年末になると、スポンサー2社協賛で年末大会が開催されていました。
今回はそんなスポンサーとの大会開催までのドタバタ劇のお話です。
開催直前にオーナー企業であるA社は大会協賛決定後にドタキャンする場合があり、その都度IGF社はその対応に翻弄され、14年当時の大会もそんな状況になりました。
14年12月27日。IGF社T社長から私に「A社と協賛金の件でもめている。何とかまとめて欲しい」と電話が入りました。交渉の末、協賛を受諾して貰い、アントニオ猪木恒例の大晦日両国国技館大会が開催されました。わずか開催4日前の出来事です。
もう1社のスポンサーB社はA社が開催すればやるという曖昧な感じでした。そういう意味でA社には苦い思い出があります。この1年前の13年12月の出来事です。

13年12月当時にも、同じようにA社から突然「今年は協賛しない」との連絡が入りました。理由は、アントニオ猪木氏の女性スキャンダルが週刊誌に取り上げられたとの事です。
この問題によってスポンサーが難色を示した訳です。「肖像権のロイヤリティを安くする代わりに、協賛金を捻出」という約束事でしたが、企業イメージとして猪木氏のスキャンダルが原因で今年はダメだという事です。B社はA社がダメならわが社も協力しないとの事です。理解は出来ますが、しかしいくら何でも開催直前になってそれはないだろうと思いました。

12月17日、私は東京都築地にある国立がん研究センターで定期人間ドックを受診した後、16時のIGF役員会に参加する為、15時に病院を出ました。
役員会の席上で冒頭「先程、A社から連絡があり協賛できない。その為、今年は協賛金がゼロになる可能性がある」という話が出ました。会議では一同、沈痛な思いが場を支配していました。監査役である私は、「開催2週間前は厳しいが、しかしまだ2週間ある」」といいつつ、特別な対策もなく、私がスポンサー2社を訪問する事で役員会は終了しました。

翌18日、2日目の人間ドックも終わり、17時に猪木氏と面談する事になりました。
明日、スポンサーと面談するが、万が一の場合を想定した上で彼に大会を開催するかどうかの最終確認をしました。当然、猪木氏は「開催したい」との意向です。そこでは私は「猪木さんの考えは分かりました。どのような事があっても、両国国技館大会は開催しましょう。しかし明日のA社との話次第ではB社も協賛しないという事になり、大きな借財が出来ますが、猪木さんも覚悟しておいて下さい」と伝えました。

翌12月19日 18時。ホテルオークラで「力道山を忍ぶ会」を開催しました。(第214回【後記】13年12月15日掲載)
この企画は当初、力道山関係者が政治家アントニオ猪木氏に発起人として依頼され、彼自身も引き受けました。その事はIGF役員会でも承認されました。ところが準備を進めて数か月が経った頃、突然、猪木氏がIGF役員会で決議された「力道山を忍ぶ会」を「やらない」とちゃぶ台返ししました。出席していた役員は「了解」の姿勢でしたが、監査役で出席していた私は役員会後、役員やスタッフを集め「私が責任を持つから水面下で準備は進めておくように」と指示しました。その関係から私もその後、力道山氏の親族や親しく付き合っていた関係者やスポーツ新聞社のトップとの面談をこなし、開催の同意を取り付けました。
そして「力道山を忍ぶ会」当日。この会にはA社やB社の幹部達も参加していました。
会場では参加者全員、アントニオ猪木氏と挨拶を交わし「よく力道山を忍ぶ会を開催してくれた」と謝意が伝えられると、猪木氏もそれに笑顔で応えていました。それが「アントニオ猪木」です。

翌20日の12時。私は渋谷にあるA社を訪問。前日の「力道山を忍ぶ会」に参加した幹部・若手社員との面談です。A社幹部は、猪木氏のスキャンダル等を理由に「協賛金は出せない。これは会長の意向だ」と告げました。A社のオーナー会長は絶対的存在です。しかし私は「長年アントニオ猪木を支援して頂いた事への感謝とスキャンダルの内容」を繰り返し自分でも呆れ返るほど説明をしました。最後には「女性スキャンダルもアントニオ猪木です」と訳の分からない話もしました。
幹部社員が「もう一度、会長に相談してみる」と一旦、部屋を出て数分後に帰ってきました。
「湯川会長、分かりました。今年も協賛させて貰います」と了解を得ました。大きな喜びをぐっと押し殺して「今年の大晦日もIGFの観戦で1年を締めくくって下さい」と握手して別れました。A社を出る時「やれやれ」と大仕事をした気持ちで同行していたT社長と代官山の近くでランチを取った後、その足で15時に御徒町にあるB社を訪問。
「A社がOKを出したので、B社も約束通りお願いします」と報告しました。
これで年末恒例の「イノキボンバイエー」も13年末に無事開催出来ると確信して、私は翌日何の憂いもなく、21日羽田発9時15分のフライトで上海出張の為、飛び立ちました。

ところが、23日に上海にいる私にT社長から電話が掛かってきたのです。

「ナニ・・・なんだって!」開催1週間前の出来事です。

(次回に続く)

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