代表取締役 湯川 剛

W社の倒産がもたらしたK社長の海外での逃避生活やそれに伴うご家族との別離を通して、改めてその悲劇と倒産の怖さを実感した次第です。父親の倒産を目の当たりにした18歳の学生時代とは違って、ある程度社会を経験した27歳の私にとってのこの出来事は、再度気を引き締めてくれる出来事となりました。

W社が倒産に見舞われたこの1974年は、私にとってショッキングな出来事が連続した1年でもありました。3月に母親を亡くし、4月に高校時代の剣道部の親友を亡くし、この2人の死は私にとって大きな影響を与えるものでした。特に会社経営に対する考え方には大きな影響をもたらしました。「何故、働くのか」という問いを突きつけられた気がしたのです。

会社設立から4年目。母親に心配をかける一方、何ひとつ孝行らしい事をしてあげられない自分にとって、母親の死は悔やむ思いばかりでした。火葬場で最後の別れをし、「5時間後、骨上げに来て下さい」と言われました。そして5時間後、火葬炉のドアが開けられガラガラと引き出された台車に目をやった時、私の中に衝撃が走りました。
影も形も「母親」がいない。数時間前までは、たとえそれが遺体であったとしても「母親」という存在は確かにあった筈なのに。
当然の事ですが、そこにはわずかな骨と灰があるのみでした。
忽然と消えてしまった「母親」の存在。その時はじめて「死ぬとは、この地球上から消滅する事をいうのだ」と強烈に感じました。大変なショックであったことは言うまでもありません。

親とは凄い。己の一回きりの「死」というものを、まさに一回きりの教材として、子供らに「人間は、人生は、一度きりだよ」と教えているように思うのです。逆に言えば、「一度きりの人生だから、思い切り価値ある生き方をしなければならない」と母の死で、自分はそのように受け止めました。まして自分の友人が27歳で亡くなったことも、更にその考えを強くしました。

私はこの強烈な思いを忘れない為に、どうしなければならないかと思案した結果、「遺書」を書く事にしました。「遺言」ではありません。「自分の死後にあたって書き残しておきたい事」ではなく、「如何に自分の命を生きるか」を書こうと思ったのです。
誕生日(1月15日)前日に「とにかく1年間は死に物狂いで働こう」と誓いを立てた「遺書」を書く事。単に自分自身だけの為ではなく、何かの役に立てる会社でありたい、自分でありたいと強く思いました。書いた「遺書」は1年後の誕生日前日に破り捨て、また新たな1年に向かって改めて「遺書」を書く。そんな「遺書」を25回、株式公開の54歳までの25年間続けました。

(次回に続く)

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