代表取締役 湯川 剛

わずか2年間でしたが会計事務所駆け出し時代は、いろいろな事を学んだ時代でした。数字の世界も知れば結構楽しくて、先生の勧めもあり、そのまま会計事務所に勤める話もありましたが、何せ借金返済には到底追いつかない給料。倒産した父親の会社の整理もほぼ目途がつき、それを機会に20歳を前にして会計事務所を去る事になりました。よく新聞等で新社長就任の記事の際、「技術系出身」とか「経理畑出身」と書かれてありますが、私の場合、初めて就いた仕事から言えば「経理畑出身の社長」であり、それから以降の3年の営業経験から言えば「営業畑出身の社長」になる訳です。しかし、どちらにしても経験年数は大した事はなく、改めて考えるとよく社長業をしたものだと思います。

いずれにしろ「将来は建築設計士」の夢は砕け、借金返済の大目標を胸に、世の中に飛び込んでいくのでした。

会計事務所を退職し、再建する長兄の店を手伝う事になったものの、借金返済が出来る給料を貰う事も出来ず、1年半の勤務を終えて、新しい職探しを始めました。残された返済猶予期間があと1年少しとなれば、営業の世界しかありません。私にとって、とてつもなく苦手な世界でやっていける自信もなかったのですが、そんな事を考える余裕も時間もありません。当時、職探しと言えば新聞の人事募集。営業募集欄には化粧品、ミシン、自動車、保険のセールス募集とあるにはありましたが、20歳過ぎの自分には到底無理だと尻込みするばかりでした。そんな中で「英会話の教材販売」という職種に、目が行きました。実は「英会話」という文字に惹かれたのは、次のような事情があったからです。

「父親の借金を返済する孝行息子」と言えば聞こえはいいですが、実はそんなに物分かりのいい息子ではなかったのです。みんなで協力して返さなければいけないという責任感はありましたが、100%納得していた訳ではありませんでした。常に「何でやねん」という不満が心のどこかに燻ぶっていた訳です。そんな折、アルバイトを世話してくれた姉からタダ同然のハワイ行きチケットが手に入ると聞かされ、現状から逃げたい一心で受け取りました。旅行者のような服装ではなく、着の身着のままの格好で飛行機に乗り込みました。勿論、生まれて初めての海外旅行ですし、飛行機に乗るのも初めてでした。大阪伊丹空港から離陸してすぐに、「しまった、自分は逃げているのではないか。」と思い、すぐに帰ろうという気持ちになったのですが、ハワイに着いた時にはそんな気持ちはどこかへ吹っ飛んでいました。いい加減なものです(笑)。しかしこのハワイで「英語」の二文字を否が応にも必要と感じた訳です。今もって英語は苦手ですが・・・。

(このハワイ経験が、後々のOSGの海外戦略や社内行事に影響するのですが、ここでは省略させていただきます。)

さて話は戻りまして、「英会話教材販売」の会社に応募するというより、「英会話」という言葉に興味を持ち、面接に行ったところ、「これからは新3Cの時代がやってくる。コンピュータとカンバセイション、そしてコミュニケーション。」との事。

当時、3Cと言えば、カー・クーラー・カラーテレビと言われていましたので、「へぇ〜」と妙に感心した訳です。当時の日本は4年前に東京オリンピックが開催され、2年後に大阪万博という時代背景がありました。私はハワイでの経験もあって「このビジネスは大事だ」と認識。しかも自分の頑張り次第では収入も増え、「もしかすれば借金返済の金額も十二分に確保出来るかもしれない」と、獲らぬ狸の皮算用で後先も考えず、「よろしくお願いします!」と返事をしました。ところが世の中はそんな甘いものではありませんでした。

何せ、まともに話せない上に、世間知らず。だから話術どころか一般の会話すらまともに出来なければ、話題も何もない。会計事務所で優しい先輩たちと話しているようにはいかない。ただあるのは、勢いだけ。そんな勢いも成果を上げてこそ続きますが、残念ながらそううまくはいきません。ゼロが続く毎日。自分を奮い立たせる毎日。しかしまたゼロは容赦なくやってきます。こういうことが続くと人間は、成績の悪い原因より、別の要因を考える時間を作ってしまいます。

「はたして営業の世界で借金返済が出来るのか」
「そもそも話し下手の自分が営業など出来るのか」
「自分は好きでこの世界に入ったのでなく、普通の会社の給料では返済不可能だからやむを得ず入ったのだ」
そんな無意味な言い訳と慰めを言いつつ、仕事をする訳ですから上手くいく筈がありません。

何とかしなければならないという焦りと、結果の出ない情けない日々が続き、早や1ヶ月も経たずに限界を感じるのでした。・・・会社設立の約15ヶ月前の出来事です。

(次回に続く)

ご意見、ご感想は下記まで
support@osg-nandemonet.co.jp