代表取締役 湯川 剛

旧オムコ工場の売買成立は、オムコ社債権を管理する債権回収機構(RCC)に委ねられており、そのRCCのメンバーは殆どが弁護士さんでした。
売買決定当日、私はRCC本部の旧小川信用金庫本社に出向きました。
面接場所は5階との事で、出迎えて下さったRCCメンバーと共にエレベーターで移動する事になりました。エレベーターに乗り込んでから私は、「皆さん方も遅くまで大変ですね。」と声をかけました。すると「連日連夜、徹夜でRCCの業務を行なっています。」との事。そして
「本日のように1件でも整理すれば大いに助かります。」と言葉を続けました。
このわずかな何気ない言葉は、私の思考回路に少なからず影響を与える一言でした。

5階に到着すると、私と子会社社長は会議室に通され、6人の弁護士が応対されました。
若い弁護士さんが「本日、遅くに来て頂いてありがとうございます。以前から貴社の子会社社長と金額面で交渉してまいりましたが、ご承知のように売買金額が先日決まりました。本日は早速ですが工場売買の契約に入りたいと思います」という言葉に対し、私はこう応えました。
「実はその話をお断りに来ました」

この言葉に誰よりも衝撃を受けたのは、私の横に座る子会社社長だったでしょう。
わずか10分前まで「我々が期待していた金額になり、良かった。」と移動の車中で言っていた私が突然「契約をしない」と言っているのです。驚いた表情で私を凝視していました。
子会社社長と同様に驚いた様子のRCCの弁護士さんに対し、私は言葉を続けました。
「実は悩んでいるのです。」と。
「譲って頂く工場とほぼ同じ広さの工場が近くにあり、購入しないかと言われている」
「しかも価格は3割程安い。でも従来の工場にも愛着がある。だから悩んでいる。」

子会社社長とのやり取りは、あくまでも下交渉。この日の私との面談で最終決定となります。
「何とか本日、決めて貰えないでしょうか。」1人の弁護士さんが言いました。その言葉に対し
「本件の工場は働く社員さんにとって愛着がある。経営者の私にすれば3割程安い工場も魅力的。もし3割とは言わないが、2割でも安くして貰えれば、本日決めてもいい。」という私に、少し検討する時間が欲しいとスタッフ全員が部屋を出ました。

「そんな新しい工場の話しがあるとは知りませんでした」子会社社長は、私と2人きりになるのを待っていたかのように質問してきましたが、私はそれを無視するように目を閉じてRCCメンバーが戻って来るのをじっと待っていました。
待つ事10分、RCCメンバーが会議室に戻ってきました。彼らのリーダーらしい弁護士さんがおもむろに言いました。
「分かりました。本日決断して頂けるならば、今までの交渉価格の2割引で決めましょう。」
「ありがとうございます、ご心配をお掛けしました。その価格で契約しましょう。」と私もそれに応じ、書類に署名・捺印しました。

無事、契約締結。私は建物を出るまで子会社社長とは一言も話しませんでした。
子会社社長が運転する車に乗り込み発車した瞬間、彼は私にこう言いました。
「その新しい工場とは何処にあったのですか。私は今日まで知らなかった」
「私もそんな工場は知らない」と応えると彼は、狐につままれたような顔をしていました。

そして私は彼に言いました。
「人間、無防備に話はしないものだ。」彼は、意味がよく分からないので詳しく話して欲しいといいました。そこで私はエレベーターでの彼らの会話を説明しました。
弁護士さん達はたくさんの債権の案件を抱えている。その為に連日連夜の徹夜で大変だと彼らは言った。そしてこうも付け加えた。
「本日、1件でも処理が出来れば助かる」
何気ない話の中で、私は「彼らの本音」を聞かされたのです。
彼らの目的は債権物件を売却して回収するより、債権物件を処理する事の方が優先なのだと、次のように説明しました。
彼らにとって値引きをしたからと言って自分の損益には関係なく、案件を処理する事にある。値引きした金額は、彼らにとれば大した問題ではないが、私にすれば会社のお金として大きな問題である。この差が彼らとは違うのだ。
ビジネスでの商談は例え顔は笑っていても真剣勝負。無防備にそして安易に話す商談は断じてありえない。あのたった一言が多額な金額に影響し、我が社は支払わなくて済んだという事だ。

子会社社長は「なるほど」と言って、しかし質問がある。値引きしてくれたから良かったものの、もし交渉した金額以外はダメといわれればどうするつもりだったのかと質問を続けました。「分かりました。やはり価格よりも愛着のある工場を選びます」と言えば何も問題はないと応えました。子会社社長は運転をしながら「凄い」と大きな声で笑いましたが、私は笑うことが出来ませんでした。改めてたった一言の怖さを身に沁みたからです。

この夜のRCCの出来事、すなわち「無防備な一言」は私にとって現在まで大きな教訓となっています。

(次回に続く)

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