代表取締役 湯川 剛

私は新幹線車中で「マロンパティの精水-いのちの水の物語」読みながらふと、ある場面が脳裏に甦ってきました。
「明日、フィリピンに行く」とOSGの顧問だった横井会長が話された事がありました。
「横井顧問、暑い中、大丈夫ですか」と言葉を返しましたが、何故行くのかは確認する事はせず、また横井顧問も「フィリピンに行く」以外に何もおっしゃいませんでした。
「フィリピンは暑いですよ、大丈夫ですか」という脳天気な言葉を返したあの時。何故、横井顧問は私にフィリピン行きの背景に関して話をされなかったのか。話を聞いたなら、私も多少の寄付が出来たのに、何故一切、私に話されなかったのだろう。

さて、JAFSと「マロンパティ」の話の時間軸をまとめてみましょう。
1979年にJAFSが活動開始。初代会長は、当時の阪急電鉄の柴谷貞雄社長でした。
私がインドに第1号の井戸を寄贈したのは1986年39歳で、JAFS設立7年目の事。
その2年後の88年4月に横井顧問に勧められ、JAFSに入会。
1990年5月、横井顧問がJAFSの2代目会長に就任されました。
90年8月、物語のきっかけとなった慶應義塾大学大学院の留学生アマンテさんからの電話は、横井会長就任3ヵ月目の事で、その後この話は「マロンパティ」という湖から10キロに及ぶパイプラインプロジェクト結成に発展。1999年3月の完成式までに、なんと9年の長い年月を要し、その翌年2000年4月に、自ら手掛けた事業を見届けて横井会長は逝去されました。

何故、横井会長は私にこのパイプラインプロジェクトについて一切話されなかったのか。
同じ頃「何としてでも株式上場するぞ」と第4次10カ年計画(1991年~2000年)に取り組んでいた時期と重なり、そんな私に余分な事を考えさせないでおこうという配慮だったのでしょう。
88年に入会したとはいえ、殆ど出席していない私でした。もし年に1度2度でも、JAFSの会合に出席していたならば、このプロジェクトの話は耳にしただろうと思います。

大阪から東京到着の2時間半の間で私は、325ページの「マロンパティの精水-いのちの水の物語」を一気に読み終えました。読み終わった時には、目にいっぱい涙が溢れていました。
自分は浅はかであった。自らの事業に専念するあまり名ばかりの入会で、求められた時にだけ寄付をする私を、入会を勧めた横井会長はどんな思いで見ておられたのか。時期が来たら、この男も気がつくだろうと思われたのでしょうか。

最前線で指揮を執る社長職から離れ少し時間に余裕が出来たので、少しは活動をしなければならないと思っていたJAFS。背中を押してくれたのは「マロンパティの精水-いのちの水の物語」という一冊の本でした。
私は降りる筈の品川駅を乗り過ごし、終点東京駅から引き返す品川駅までの10分少々の間に、ある思いがふつふつと湧いて来ました。
本の中にある一節 (67~68ページ) にプロジェクトを決定する理事会のシーンがあります。

「村上君、やろう!」
村上の熱弁に耳を傾けていた横井は突然、しかしはっきりとした口調で言った。不意を食らった形の村上は、胸に言いようのない熱いものがドッとこみ上げてきた。
「ありがとうございます」
なぜか、そんな言葉が口をついて出てきた。それだけを言って、あとは声が詰まって言葉にならなかった。

私はこのページを読みながら、その場面に私も立ち会いたかった。「村上君、やろう」という横井会長の凄まじい決断の場面を理事の方と一緒に立ち会いたかったと強く思いました。

「これを映画にしよう!!」
その時、心の底から思いました。
「湯川君、やろう!」と横井顧問が天国から言ってくれているような気がしました。


(次回に続く)

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