代表取締役 湯川 剛

1991年から2000年(44歳から53歳)までを振り返ります。
この10年間はズバリ「株式上場」に向けてひたすら走った10年です。

日本の社長の平均年齢は分かりませんが、この10年間は今まで若手経営者と言われたところから卒業し、それなりの年齢での経営者です。
銀行主催の経営者異業種交流会等に参加すると、まずは参加者同士の名刺交換が行なわれます。
「どのようなお仕事ですか」と問われ「浄水器を扱っています」と回答すると、当時はそれ以上の会話に発展する事はありませんでした。最近では「時代にあったいい仕事ですね」と言われますが、当時は悪徳商法等で扱われている商材の1つに「浄水器」があったため、胡散臭い会社のように思われる事が多かったのです。100万円もする高額な浄水器を売り付けられたといった事件が新聞紙上に度々掲載されていました。高級な据え置き型浄水器でも5万円までが妥当な価格です。あまりの法外な価格に驚く以上に、そのような事件が後を立たない腹立たしさと悔しい思いに駆られました。もし浄水器が一般的に普及されていたなら、常識的な価格の認知も広まっている筈だろう。我々がその役割を果たしていないから起こる事件なのだと、このような記事を見る度に自分の責任のように思い、また彼らと同類に思われる事への怒りでいっぱいでした。
創業時から10年は浄水器の認知度が低い事に対する闘いでしたが、それからの10年は悪徳業者との闘いでした。だから経営者異業種交流会にも当時は積極的に参加する気持ちはありませんでした。私がそうなのだから、社員さんはもっと嫌な目に合っているかも知れない。
「社員さんに誇りを持って仕事をして貰いたい」これは創業時から思っていた事でした。

「極力、大手企業と取引をしよう」と意識したのも、この10年間でした。
大手都市ガスや大手LPガスなど燃料業界から大手農機具業界、更に大手商社などに次々取引先を開拓しました。それでも何か物足りなさを感じていた自分がいました。

忘れもしません。1991年1月14日。この日は第3次5ヵ年計画の結果発表の日でした。
第1次7ヵ年計画(1973~1980)は本社ビルを建てる事を目標に掲げて成功。
第2次5カ年計画(1981~1985)は低周波治療器業界日本一 年間10万台を目標に掲げて成功。それに勢いづいて第3次5カ年計画(1986~1991)は、「5年間で売上5倍」を目標に掲げて初の未達成。

元々、計画では1月14日に創立20周年式典を大々的に行なう予定でした。
急遽変更し、けじめの式典を行なった訳です。過去の周年パーティとは違ってお客様は招待せず、招待したのは融資を決断してくれた銀行支店長。低周波治療器の製造元である社長。
コンサルタント会社S総研の担当者。それに私が初めて営業の世界に入った時に不自由な足で販売とは何かを教えて下さった先輩ご夫婦(第120回第122回掲載)
全社員さんが集まった席上で、私が「第3次5カ年計画の失敗は、まさに私の経営の失敗である」と演壇から降り社員さんに向かって頭を深々と下げました。全員が泣きました。
この場面は今でもはっきりと覚えています。
この後、「今日は泣く為に全国から集まって貰ったのではない。第3次5カ年計画は失敗した。でも敗北ではない。次がある。10年あれば立ち直れる。10年あれば、今出来ない事でも結構できるものだ」と言葉を続けました。

この10年は私にとって全て、この1991年1月14日の場面を抜きにして語る事は出来ません。この10年間はいろいろな問題がありました。「人生はプラス思考で歩きましょう!」を読んで頂ければお分かりのように、次から次へといろいろな問題が起こります。
しかし私にとっては、ただただ「株式上場する」という目標の前では、それはクリアしなければならない問題でした。勿論、低周波治療器の撤退からバブル崩壊後の融資の締め付け、そして阪神淡路大震災などその時その時は大きな障害がやってくる訳です。しかしそれもこれも「株式上場する為には乗り越えなければならない課題だ」という大目標があったからです。

業界全体のイメージを損なう悪徳業者との闘いを乗り越えて、社員さんに「誇りを持って貰いたい会社」にする為にも何としても自分達の手で「株式上場会社」を実現させる10年間でした。
夢を追いかけて、出来もしない妄想に近い考え方でスタートした目標が、やがて現実されていく事への不思議さは今となっては感じます。一人では出来ないが、みんなでやれば出来るのだという体験をこの「株式上場」に賭けていたと思います。

またこの10年間は個人的にですが、大学進学した事は私にとって大きな挑戦であり、得がたい経験でした。


(次回に続く)

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