代表取締役 湯川 剛

決起の月・挑戦月間である11月はいきなり水宅配市場参入の動きで慌しくなりました。
その隙間を縫うように中国への動きも更に活発化してきました。年中無休状態です。

私が初めて上海に降り立ったのは2003年9月。あれからちょうど14ヶ月が経ちました。
その間に目まぐるしい動きがありました。まずパートナー企業である中国T社の中国全土に広がる代理店廻りは凄まじいものでした。移動距離も含め、移動スケジュールは過密なものでしたが、私は一気に中国人の友人達が出来ました。中国政府関係機関の高官とも名刺を数多く交換しました。通訳はOSG社員さんに任せている為、言葉は相変わらず出来ませんでした。

2004年11月19日、私は福州の代理店のお客様集会に参加しました。
その福州で12月6日に来日し、日本機能水学会参加する事が決まりました。訪問する目的は中国機能水協会が設立されていないので、その為の協力要請と来春に、日本機能水学会の幹部を中国に招待し、日中交流の準備をしたいとの事です。

翌20日には南京に移動して南京代理店のお客様集会に参加しその夜、上海に戻りました。
翌21日は2回目の上海お客様集会に参加です。

14ヶ月前の2003年9月19日に私は初めてT社の上海代理店が主催するお客様集会に参加しました。何も分からない私にT社の呉秘書から1枚のメモを渡されて、それが私の挨拶となった訳です。最初の頃は何をしているのか、説明も十分に受けず多くのお客様の前でメモを読んでいました。「尊敬する金菫事長、並びに尊敬する○○、そしてご来賓の皆様、私が日本OSGコーポレーションの湯川でございます。」的なメモだったと思います。会場によっては尊敬する○○さんの名前が多く読む場合もありました。あれからちょうど14ヶ月目に私は上海会場にいました。その間、たぶん100社近くの代理店を廻ったと思います。

明日のお客様集会に参加するに対して、簡単な打ち合わせが夕食を兼ねてありました。
その席上、上海代理店の社長は「湯川社長、覚えていますか。上海会場が最初だったんですよ」と自慢げに言われました。事実、各地域の代理店のお客様集会に行った時に必ずそのエリアの代理店社長が「第1回目が上海代理店だったのですね」と殆どの方がいいます。それは上海代理店社長から全国の代理店に連絡が入り「上海代理店が第1回目なんだ」と自慢げに言われるそうです。ここが中国的です。

話は戻しますが、上海代理店社長が「湯川社長、覚えていますか。上海会場が最初だったんですよ」に対し、私は覚えるも覚えないも最初の意味が全く説明されていなかったので、ただ単にメモを読まされただけは覚えていますと応え、食事会は笑い声が起きました。
当然、今は私の考えで私の言葉でスピーチしている事も伝えたところ、上海代理店社長は「良く知っています。この1年ですっかり変わりました。実は南京代理店のお客様集会を見学に行って、湯川社長がスピーチを聞きました。そこで今回はお願いしたい事があります。私は他の代理店がしていない事を、明日のお客様集会で従来と違った特別な嗜好を凝らしてやりたいのですがどうでしょうか」との事でした。
隣にいたT社の金菫事長はその内容を事前に聞いていたらしく、無理だろうという顔がありありと出ていました。
そこで私は「社長のお願いなら何でも聞きますよ」と応えました。
すると上海代理店社長は私の手を両手で握り、「謝々、謝々」と頭を下げT社本部の幹部達から拍手が起こりました。金菫事長は私が承諾した事に意外だというような顔をし、そしてニヤニヤ笑っていました。勿論、この時点では私は何をするのかは知りません。

そこで何をするのかの説明を通訳のOSG社員さんに話しました。すると私に通訳する前に、彼らに断っているようなしぐさで手を左右に振り、それはダメだというようなリアクションを取っていました。私は言葉が分からないので少し不安になってOSG社員さんに「何をしろと言っているの」と尋ねたところ、社員さんは私に向かって「社長、この話はダメです。社長に相談しなくても私から断ります」との事。

上海代理店は私に何をさせようとしているのか。
OSG社員さんが私に確認せずに断った内容とは何なのか。

(次回に続く)

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