代表取締役 湯川 剛

私は中国での勉強会を広州代理店で初めて行ないました。

実は広州に来る前に、はたして私の勉強の内容が通じるのか、正直不安でした。はたして異国の中国で通じるのかという思いがありました。それぞれの国の風土や文化、それに育ってきた環境が異なる訳です。言葉の表現も習慣も違います。広州に来る機内の中でそれだけが不安でした。私はいきなり「私達は失敗をする為にこの世に生まれてきたのではありません。私達とは、勿論ここにいる皆さんも含みます」の言葉に一同がシーンとなりました。

しかし彼らの表情を見ていると、大きくうなづいて聞いてくれている姿に私は安堵しました。

勉強会が終わった時に私は「頑張ろう」と日本語で言いました。すると呉さんが「加油(チャァユウ)」と呼びかけました。全員が椅子に座って「加油」「加油」と応答しました。
そこで私は椅子から立ち上がり右手でコブシを作り、腕を上げて「加油」と言いました。
彼らも右腕を上げて「加油」と元気な声で応えてくれました。
私は「加油」「加油」と連呼しました。彼らも「加油」を連呼しました。
その時はすでに10数回の「加油」の連呼です。
もうそろそろ終わってもいいような雰囲気でした。しかし私は止めませんでした。
そこで私は次に椅子の上に乗り「加油」「加油」と連呼しました。彼らは気がつきました。
椅子に座っていながら「加油」を叫んでいる自分達が間違っていると気がつきました。
椅子から立ち上がり「加油」「加油」と連呼した訳です。

この間、呉さんは一切の通訳を止めました。
「湯川社長が立ち上がっているんだから、皆さんも立ち上がって」などの説明もしませんでした。私と社員さん達とのそのやり取りを、じっと見守っているだけでした。
私は椅子から降り、更に連呼しました。すると全ての社員さんが右コブシを上げながら「加油」「加油」を連呼し、私のところに駆け寄ってくれました。右コブシが握手に変わりました。

皆が中国語で何を言ってるのか分かりませんが、握手をしながら皆の顔が30センチ20センチと近づいてきました。中には抱きつく社員さんもいました。
わずか3時間で言葉の壁を超えて1つになったようなきがしました。「凄い」
金菫事長はその間、一言も言葉を発しないまま会場の後方でジーッと見ていました。

夕食時に、「やはり私の思った通りだ」とあたかもこのシーンを事前に予想していたかのような話でした。

翌25日に広州大会が開催され、その夜、深圳に移動しました。
その翌26日には深圳大会が開催されました。珠海大会や北京大会と同様な規模で開催。
金菫事長の妹でもある深圳代理店社長は率先垂範して大会を運営していました。
たぶん金菫事長からかなりのプレッシャーを掛けられたのでしょう。恐らく「スケジュール取れないところ、自分が無理やり、湯川さんを連れてきたのだ」と言ったのでしょう。
通訳の呉さんからそっとその情報が入りました。
しかもOSG製品の第一号のお客様が深圳代理店で販売した事も金社長にとって影響していたのでしょう。

私はこの深圳大会からメモは使用しないで自分の考えでスピーチをしたいといいました。 金菫事
長もその方がいいと賛同し、通訳と事前の打ち合わせもなく出来たのは、この間の勉強会で呉秘書の通訳力が分かったからです。

当然の事ながら、お決まりの口上もなくフランクに話せ、会場が大爆笑した事で私も気持ちの良いスピーチで終わりました。
その影響ではないと思いますが、予定以上に販売が出来、会場ではお客様が私と一緒に写真を撮ろうと集まって来ました。日本では考えられない光景です。

この深圳代理店が後々、大勢のお客様や幹部及び優秀社員さん達がOSG本社を訪れるようになりました。弊社では本社2階の展示場で「大河の一滴」と書かれ、OSG製品第一号のお客様の写真とその当時の製品を展示してあり、他の代理店が来日観光で弊社を訪れる時に大いに喜ばれました。

また逆に深圳代理店では、後々OSG製品の展示や製品説明が出来る100名程が収容されるミニシアター等の大展示場も作って頂きました。
その結果、中国全メーカーの最大の販売力を誇る代理店になるとは、もちろんこの2003年10月当時は思ってもいませんでした。

尚、帰国する10月27日にやはり深圳代理店の社員さん達に社員教育を要請され、出発時間ギリギリまでしたのは当然の事でした。

(次回に続く)

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