代表取締役 湯川 剛

人生において、生涯忘れる事の出来ない出来事は誰しも、幾つかはあると思います。
私にとって2001年7月30日から8月2日までの4日間は、生涯忘れる事の出来ない出来事の1つです。

当時の日記がその心境を表しています。

8月1日(水)
心が晴れぬ。今朝早く、お墓参りと信貴山に祈願に行く。「明日、間違いのないように」と祈る。
15時に日経新聞が取材に来た。16時30分、野村證券アナリスト。心ここにあらずだ。
夜の23時まで審査部とやり取りを行なう。心に鉛が重くのしかかっているようだ。

8月2日(木)
8月2日、運命の時がやって来た。
昨夜遅くまで、T弁護士と電話で打合せ。T弁護士がしつこ過ぎる位「難しい。滅茶苦茶だ」と。日興ソロモンからも「書類を送れ」「18時までなければダメになる」との電話催促。
「T弁護士だけの承認ではダメだ。」
昨日、日経新聞に原稿を出すが、万が一にもダメになったらどうするのか。どこかで見切り発車出来るのか。1日の余裕もない状況で、首の皮一枚が残った分、最大の努力をするしかない。「何故、川越工場の契約が出来る、出来ないで今回の公開が取り消しになるのか」と訴えても「決め事を決めた通りやるのが公開企業だ」と突っ返される。K審査部長には相談は一切しない。昨日はお墓参りで亡き父や母、そして兄にも頼んだ。信貴山にも参った。

落ち着かない午前中。空腹は感じないが気分転換に担当のNさんに食事に行こうかと電話をしたら、それどころではないと断られた。彼も私と同じように悩んでくれている。勿論、自分もそうだが、今は人事を尽くして天命を待つ心境だ。社員数名とメシに行く。

Sから「たった今、地主のY氏より捺印を得た」との電話。「もしかすれば、Y氏からも印鑑がもらえないかもしれない」と言われていたが、やれやれだ。
一歩だけ前進した。本来なら2日までというなら夜中の24時までだと屁理屈を言ったが、昨日の夜、「2日の18時まででないとダメ。それ以降、いくら努力してもダメ」とK氏より突きつけられた。

裁判所に行ってくれと要請し、O部長が大阪から行く。そんなやり取りの為、日刊工業新聞の取材が30分遅れる。取材どころではない。昨日の日経新聞の取材もつらかった。野村證券のアナリストの説明中も心の中では「もしダメならどうするのだ」と心の中で葛藤。

心が落ち着かない中、夕方16時、日興本社で会社説明会が始まる。
「予定では調停は16時50分からスタートだが、出来るだけ10分でも早く開始して欲しいと16時30分にスタート。何としても17時30分には判明して欲しい。」との連絡。

Nさんは会社説明中に退席。調停の状況を聞き、説明会中であっても、うまくいけばサインを出す予定であったが、Nさんは首を横に振るばかり。会社説明をしながら、気が気でなかった。そんな中、説明会が終了。
早くこの場所から出たかったが、多くの日興社員さんが浄水器を買いに来た。笑顔で対応しながら、Nさんに「どうだった?」と聞いたが、「まだ結論は出ていません」との事。

明日の東京で機関投資家訪問の予定がある為、今日中に東京に行かなければならない。
最後の難問である調停問題が解決していないのに、東京に行かなければならない。
もし不調ならどうするのか。
H君の車で会社説明会の日興証券から新大阪に向かう。
途中、「今、A.Yさんが終わった。O氏まであと5分待ってくれ。」と電話があった。
ここでO氏が前回と同様になれば、今回の公開は諦めるしかない。新大阪到着。

新幹線チケット売場に行って列に並んだ。
電話が鳴った。「ただ今、17時58分に調停が終了しました。社長、上手く行きました。社長、良かったですね。」の声に「よっしゃ!」と返事をしました。その時、チケット売場の窓口「次の方、どうぞ」と順番が廻ってきたので、労いの言葉も言わず、電話を切ってしまった。

駐車をしてきたH君に「OKだ」と言った。
H君が最高の笑顔で「良かった。この何日間か、女房と子供達が祈ってました」
その一言に涙がぽろぽろと出た。そういえばクリスチャンのアンちゃんも、今朝「早朝4時半まで教会でお祈りしていた」という。こんなに多くの人に心配をかけ、成立した公開なのか。
すぐNさんに電話をした。「そうですか。いいのですね、いいのですね。」と念押しされた。

私は明日から始まるOne on Oneの為に新幹線に乗った。名古屋を過ぎたところで車内販売の赤ワインを買った。窓には外が薄暗くて自分の顔が映っていた。
その顔に向かって乾杯したが、涙が止まらなかった。
これで全てのやり取りが終了した。
O氏にいじめられたが、O氏に感謝したい。
長い辛い何日間かであった。意義のある公開だと思った。

社員の皆さん、お袋、親父、兄貴、ありがとう。

  • 当時の日記をほぼそのまま掲載。
    あくまでも個人的な日記である為、話の筋が分かりづらいところがあると思います。
    この日の事は生涯忘れないでおこうという気持ちと、いずれこの日の事を社史の1頁として語る時が来るかもしれないと思い、東京の宿泊先でペンを走らせた事を覚えています。
    まさかこの「人生はプラス思考で歩きましょう!」に書けるとは思っても見ませんでした。

    午前中の出来事、午後からの事、日興証券での出来事、新幹線のチケット売場で並んでいた時にかかってきた電話。そしてチケット売場の窓口の場面。1人で窓に映った自分に向かって乾杯した事。そして目頭が熱くなった事。
    不思議な事に昨日のように全て覚えています。
    それにしても感情が高ぶっていた為か、我ながら54歳の文章ではないなぁ〜と少々恥ずかしさは否めません。

 

【後記】
今から50年前の12月15日は、戦後の大ヒーローであった力道山さんが亡くなった日です。
その約3週間前の11月22日にケネディ大統領が暗殺され、この有名な2人が相次いで亡くなったニュースに、当時16歳の高校生であった私は驚いた事を覚えています。

さて数日後の12月19日に「力道山を偲ぶ会」が催されます。これもご縁でしょうか、私にお世話をする役が廻ってきました。
きっかけは、今春開催したOSGグループのウォーターネット・オーナー会に力道山夫人をゲストにお招きしての講演会を企画した事でした。

勿論、私はお会いした事はありません。
準備を進めるにつれ、改めて凄い人だなと思いました。
生前の力道山さんは政財界からスポーツ・芸能まで幅広いお付き合いをされていました。
石原慎太郎 日本維新の会代表をはじめ、現在でも政界で活躍されている方もおられます。
プロレス界ではアントニオ猪木さんをはじめ、日本プロレスの父として、直接、力道山を知らない多くの選手からも慕われています。
野球界では重鎮の金田正一さんや今でもテレビで活躍している張本勲さん。
長嶋茂雄さんや王貞治さんも若い時は、随分と可愛がられていたそうです。
夫人から出されるリストを見ると、そうそうたるメンバーでした。
もう既に他界された美空ひばりさんや石原裕次郎さん・三船敏郎さん等もお友達だったのよと夫人は普通のように話しておられました。

夫人のご意向で「余り派手にはしたくない」と、約100名をご招待しての偲ぶ会。
既に亡くなられて50年が経つ今でも、多くの方々から慕われている力道山さんに改めて感動しました。

(次回に続く)

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